たまごの立つ話(中谷宇吉郎)全国学校協会図書館協議会発行 集団読書テキスト<A3>
ことしも、もうおしまいになった。戦争がすんで、二年半たって、敗戦のつらさもひととおりみんなが経験した。それでもどうにかきりぬけることができたことは、ありがたいことである。
ところで、この二年半のあいだにおこった事件のなかで、私がいちばんおもしろいと思ったのは、ことしの二月のはじめに新聞をにぎわした「たまごの立つ話」である。たまごが立つというのは、おもしろい話ではあるが、いろいろ重大な事件がたくさんあったこの二年半のことを思ってみると、それほどとりたてていうほどの事件ではないと、だれでも考えるであろう。
しかし、このたまごの立つ話は、考えようによっては、世界の歴史のうえでもめったにないおもしろい事件ともいえるのである。というのは、むかしから「コロンブスのたまご」ということわざがあるくらいで、たまごは立たないものときまっていた。そして、それを疑う人はだれもいなかった。ところが、この二月の立春の日にほうぼうでたまごを立ててみたところが、それがみな立ったのである。いろいろな新聞がテーブルの上にたまごの立った写真をのせていたことは、諸君も覚えていることだろう。
話のおこりは中国からである。
中国の現在ニューヨークの総領事をしている張という人が、前に中国の古い本を調べていたら、立春の日にはたまごが立つ、ということが書いてあるのを発見した。その話を聞いた中国の国民党の宣伝部につとめている魏という人が、一昨年の立春の日に、重慶でアメリカの新聞記者立ち会いの上でこの実験をしたら、たまごはみごとに立ったそうである。
そのアメリカの新聞記者は、さっそく本国へ通信をしたのであろうが、大戦中のことで、その話は、たいした問題にもならずにすんだ。
ところがことしの二月、その魏さんが上海の駐在員になっていた。前に重慶での実験に立ちあったアメリカの記者もちょうど上海にいたので、ふたりでいまいちどこの実験をしてみることになった。こんどは大がかりで各新聞社の記者たち、カメラマンなどおおぜいを招待して、その前で実験をすることにした。それがひょうばんになって、ラジオのほうではその実況放送をするというさわぎになった。
実験は大成功で、たまごはみごとに立った。テーブルの上に立てたたまごは、つぎの朝までたおれずに立っていたし、タイプライターの上にも立てることができた。つぎの日の英字新聞は、第一面にこの記事をのせて「歴史的な実験に成功」という大見出しで書き立てた。
−中略(:立つということのニュートン力学的な解説と、考察が行われる)−
ところが、たまごのからの表面はざらざらしている。すなわち小さいでこぼこがあることは、だれでも知っているとおりである。
問題は、あのでこぼこにありそうである。たまごの底の部分のすくなくとも三つの凸点は非常に小さいゴトクの三本足のような役めをするはずである。そして重心からおろした垂直線が、そのゴトクの三本のあしがしめる面積の中に落ちればたまごは立つことになる。それでたまごの底の部分のからを学校へもっていって、たてにうまく切って、その切口を顕微鏡で調べてみたら、三つの小さな凸点間の距離はだいたい0.8ミリくらいであることがわかった。
これで問題はいちおうとけたわけである。たまごの重心からおろした垂直線が、およそ半ミリ四方くらいの底面積のなかをとおるように、うまく調節をすればたまごはいつでもたつのである。それには、十分の一ミリくらいの精密さでたまごのあたまを少しずつうごかしては、そっと指をはなしてみればよい。三分か五分やってみれば、たいていうまく立てられるはずである。
こうわかってみると、なんでもない話ではないかと思われるかもしれない。しかし、問題は、そういうなんでもないことに、世界じゅうの人間がコロンブス以前の時代からこんにちまで、どうして気がつかなかったかという点にある。それは、五分間くらいついやしてたまごを立ててみようとした人が、いままでだれもいなかったからである。じっさいのところ、たまごを立てる実験は、かなり気をおちつけて、かならず立つものと確信して、なんどもなんどもくりかえしてやっているちに、うまく立つものである。立つかなと思ってちょっとやってみるくらいではなかなか立たない。
そういう意味では、中国のむかしの本にあった立春の日にたまごが立つという話は、かなりおもしろい話である。たまごのような手近なものに、こういう例があるのだから、私たちのまわりには、まだだれも気のつかないことがたくさんあるであろう。学校でならう物象でぜんぶわかってしまったと思うことがいちばんいけないことである。
<後藤の感想>
たまごはもともと立つものなのに、立たないとの先入観が、たまごの本来の力を発揮させることを邪魔している。自分や他人の良いところ、本来持っている姿をどれだけ見落として、その本来持っている力の発揮を妨げていたのか、反省した。
5分間実際に立てようと思って、やってみれば真実に近つけたのに、それをやっていなかったために真理がわからない。真理自体はそこにあるのに、見えてないのは、みる気がないからだろう。武道でもコツは普通に、自然にやることではないかと思った。真理はどこにも行かないのだ。
やってみようと思う気持ち、そして、実際にそれを行動に移すこと、さらに、やると決めたら、信念を持って時間をかけることが大事だと感じた。
また、「たまごは立つ」というサジェスションからかんたんに立てられるように、良い指導者との出会いも含めて、人との出会いが大事であると思った。
人間の体も同様に、自然に真っ直ぐ立つ状態を内に秘めていると思う。そのものの持っている本当の姿を生かすことが大事なのではないか?